札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「地の塩、世の光」

更新日:2016.3.22

マタイによる福音書5章13-16節(新P6)

牧師 米倉 美佐男

今朝の説教題は「地の塩、世の光」です。13節と14節のところからとりました。大変馴染みのある聖書箇所です。先ず、第一に「地の塩」について。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(13節)「あなたがたは」と言われているあなたがたとは、先に幸いだと言われていた人々のことです。そして、それは昔の預言者のように迫害を受ける、この世に存在するキリスト者、キリストの教会です。

キリスト者は迫害されるが、だからと言ってこの世から隔離されて生きるのではありません。隠遁生活でなく、この現実の世の中で生きるのです。たとえて言うなら、食べ物が塩で味付けされるように、キリスト者は世に生活することで世に良い味を提供するのです。度が過ぎればただ塩辛いだけで味を損ないます。塩はまた腐敗防止にも役立ちます。塩気を失ったものは後は廃棄処分です。今一つ、「世の光」と言われています。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」(14-15節)光は升や燭台の上に置かれて人々の目につくことによって本来の役目が果たせます。光を覆ってはまったく無意味です。

地の塩、世の光の話はいうならキリスト者は一方では塩のように世に交じりながら、他方では光のように世から区別されてこそ、あるべき務め、役割を担えと言われている話です。世の一員として、世と混じり合って暮らし、時に世から迫害されても塩の役目を果たし、世を照らすのです。キリストのゆえに迫害を受けてもそれは悲しいことではない。なぜなら既に天の国に招かれているのですから。

(2016年3月13日受難節第5主日礼拝説教より)

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