「闇の中でも貫かれる信頼(十字架の七言5)」
更新日:2023.3.20
ルカによる福音書第23章44-49節
小林克哉 牧師
自分以外の誰かに、自分のすべてをゆだね、自分の人生を決めてもらう。現代人が忌み嫌う行為です。小さな頃から自分の人生は自分で決めなさい、自分の思うように生きなさいと教えられているのです。誰かに人生を決定されることは悪しき事なのです。ところが、イエスさまは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)と祈られました。
余命わずかであることを知り、死を意識している方のもとを牧師としてお見舞いすることがあります。ある方が「先生、あとはイエスさまにおまかせです」と言われました。キリスト者として幸いなことだと思いました。生も死も神のもの、神さまにゆだねることができると言えるのは、イエスさまが罪と死から贖ってくださったと信じられるからです。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りはわたしたちの模範であると共に、御子イエスさまだけの特別な祈りでもあります。十字架を前にイエスさまはゲツセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(第22章42節)神の怒り、神の裁き、神の呪い、神の滅びの杯、御子であられるからこそその恐ろしさを知っている杯です。イエスさまは御父におゆだねになられたのです。
イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ第15章34節)。イエスさまは本当の闇を経験されました。わたしたちはイエスさまのゆえに神さまから決して見放されることも見捨てられることもないことを知っています。しかしイエスさまは、神から見捨てられる神の裁き、神の呪い、神の滅び、その杯を十字架で受けられたのです。光の差し込まない本当の闇を経験されたのです。
その闇の中で、イエスさまは父を信頼して祈られました。闇の中でも貫かれるイエスさまの信頼があるから、わたしたちはどんな闇の中にあると思うときでも、神を信頼し、イエスさまを信頼して祈ることができるのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。アーメン
(2023年3月12日礼拝説教より)