札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「この人を見よ」

更新日:2016.3.28

ヨハネによる福音書19章1-16節(新P206)

牧師 榮  潤子

主イエスの受難の週である。私たちの信仰の中心である主の十字架と復活を覚え、確認する時である。札幌教会としても洗足木曜日には夕べの集いを行う。
主イエスの受難週の歩みは福音書に記され特にマルコによる福音書11章からは日曜日のエルサレム入城から十字架に至るまでの歩みが記され、16章の復活の記事で終わる。

ヨハネによる福音書は独特な書き方で主の受難を記している。弟子たちと最後の晩餐の席の前に弟子たちの足を洗われた。その時は主イエスはこれから自分の身に起きる苦しみが始まることを知って、弟子たちの足を洗われる。弟子はその気持ちを汲みとれない。その後の食事の席でユダの裏切りの予告がある。にもかかわらず、弟子たちには通じない。そして弟子たちと主イエスが一緒にいた所(ゲッセマネ)で祭司長たちに逮捕される。愛する弟子の一人の裏切りにより、捕えられるが主イエスはここに父なる神のご計画を受けとめて行かれた。人々は主イエスを大祭司の下に送る。大祭司の屋敷の中庭にペテロが入っていた。そこで主イエスは大祭司の尋問を受ける間にペテロが、イエスを知らないという。

その後、主イエスは大祭司から総督ピラトに送られ尋問を受けられた。それは当時のユダヤ人は裁判の決定をする権限がなかったからである。ピラトはイエスに罪を認められずなんとか赦そうと鞭打ちの後にみんなの前に、イエスを引き出した。「この人を見よ」人々は同情して死刑をとりやめると言うと考えたが祭司長にそそのかされた群衆は「十字架につけろ」と叫んだ。ピラトはこの声に負けた。主の復活後、人々は十字架につけられ死んだ主イエスは「罪をとり除く神の小羊」であると信じるようになった。
他でもなくこの私のために命をかけて十字架にかかってくだださったのだと信じて、歩んでいきたい。

(2016年3月20日棕梠の主日礼拝説教より)

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