「クリスマスへの旅(降誕④)」
更新日:2022.12.26
ルカによる福音書第2章1~7節
小林 克哉牧師
ある牧師の青年集会での講演録を読みました。高校性の時、キリスト者の友人がいた。「なんで神がいるのにこんなことがあるんだ、おかしいじゃないか」と言うと、キリスト者の友人はいつも答えられなかった。でもいつも「まあそんなこと言ってないで一度教会に来て見みなよ」と言われた。高校2年の秋に教会に通い出した。礼拝をする人たちを見て、前に向かう世界があると思った。ただ教会の中に立ち、神さまの言葉で生きている人がいるのを見た時、「これは何か違う」と思わされ、高校3年のクリスマスに洗礼を受けた。そのような証しです。
以前と世界は何も変わっていませんでした。「なんで神がいるのにこんなことがあるんだ」という理不尽な状況は何も変わっていませんでした。でもそこで光を見たのだと思います。御言葉は記します。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節)
このドロドロした世界の只中にイエス・キリストが来てくださったのです。「神などいるものか」と訳も分からずに神を責めるこの世界に到来してくださった方があるのです。人間が備えているからではない。神を受け入れる場所などないこの世界の只中に来てくださったのです。
病がいやされた証しを聞いたことがあります。逆に病が治らなかった証しを聞いたことがあります。病は治らなかったけれどイエス・キリストを知った。わたしのために人となり、わたしの罪と死を担い十字架で死んでくださったお方を知った。その時に病がもはや決定的なものでなくなった。それまでは病が一番大きなことだったけれど、神と出会った時、病はもはや大きなものでなくなり、神が一番大きなことになった。そのような証しです。
「礼拝をする人たちを見て、前に向かう世界があると思った。ただ教会の中に立ち、神さまの言葉で生きている人がいるのを見た時、『これは何か違う』と思わされ」。この札幌の町に神がわたしたちの教会を建ててくださっているのはこの光を証しするためなのです。アーメン
(2022年12月18日礼拝説教より)