「主に遣わされる」
更新日:2022.11.7
ヨハネによる福音書 第20章19-23節
江別教会 榮 忍 牧師
週ごとに繰り返されるプログラムの中で、常に礼拝が喜びとなっているかが課題。誰かに伝えたい喜びの再生産があれば、それが伝道につながる。
ヨハネによる福音書20章に記される復活の記事は、早朝の空の墓、墓の外でのマグダラのマリアとの出会い、今日読んだ密室に集まっていた弟子たちに顕現した夕刻の出会い。0から1へそして複数へ復活の証言が広がる。そして、八日後の疑いのトマスへの顕現が続く。
顕現されたイエスは、隔ての壁をすり抜ける。主が働かれるなら、堅固な壁も意味をなさない。そこに「平安」のメッセージがもたらされる。傷を示されるイエスがシャロームと呼び掛ける。このイエスが共にいてくださることを感じながら「派遣」される。イエスをキリストと示される聖霊と共に、携えていくのは「罪の赦し」。
自分の聞きたい事柄しか評価せず、背を向ける場合がある。「不安から逃れられない」と言いながら、受け容れる決断をしないことがある。
それでも、その不安の中にいる者に「平安があるように」と呼びかけるのだ。そして、その平安は赦しを受け止めて現実となる与えられた恵みだから、人の側の努力への評価ではない。へりくだって罪を認め、赦しを求めるだけで与えられる赦しの恵みを心から喜んでいる姿を伝える。そのために この喜びを刷新する礼拝を捧げよう。
(2022年10月30日礼拝説教より)