「イエスキリストという道(ヨハネ38)」
更新日:2022.9.5
ヨハネによる福音書第14章1-14節
小林克哉牧師
今日は北海道マラソンが行われており、教会の前の道もマラソンのコースになっています。ゴールにつながっている道は一つだけです。その道(コース)を通らなければゴールになりません。神により造られ、神により生かされているわたしたちが向かうゴールとはどこでしょうか。イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)
イエスさまはイスカリオテのユダの裏切り、ペトロの離反を予告されました。弟子たちがイエスさまに離反することになる試練、苦難が近づいている緊張感が走ったのです。弟子たちは不安で心騒がしていたのでしょう。どうなるのだろう。弟子たちはすべてを捨ててイエスさまに従って来ていました。そのことで、自分たちがイエスさまの弟子であると自負できました。ところが、離反すると言われる。これまでの自分たちのままでいられなくなる。動揺し心騒がせずにはいられなかったのです。イエスさまは言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)
神を信じ、イエス・キリストを信じる。だから心騒がせなくてもよい。もし信仰が自分に根拠を持つもの、自分の決心や意志に根拠を持つものなら、それは案外脆いものではないでしょうか。裏切りと離反の予告により弟子たちの信仰は瓦解してしまったでしょう。しかし信仰はわたしたち人間の側の信念とは違います。信仰とは神に、イエス・キリストに根拠を持つものなのです。たとえイエスさまを裏切り、離反することになったとしても「心を騒がせるな」なのです。そんなことで、イエス・キリストの弟子であることは失われない。イエス・キリストが弟子として選ばれたのです。救いは失われないのです。イエスさまが救ってくださるのです。悔い改めて立ち帰りキリストにとどまればよいのです。
イエスさまは、わたしが道である、と言われます。他にもいろいろある道の一つではないのです。このお方が真理であり、命なのです。そのことを知らされているとは何と幸いなことでしょう。アーメン
(2022年8月28日礼拝説教より)