「完全な愛」
更新日:2022.6.27
ヨハネの手紙Ⅰ第4章13-21節(新約445頁)
北広島教会 菊地啓示牧師
わたしたちが信じる父・子・聖霊なる神様は、御互い同士で交わり合いながら、この世に向かって御自身を与える御方です。神様は御自分の独り子をこの世に与えてくださり、さらにはここにあるように、「御自分の霊=神様御自身を(も)分け与えて」くださいました。そこには大きな喜びがあり、その喜びが、イエス様を通してこの世に注がれています。聖書のはじめ、創世記には、御自分が御造りになったすべての良き物を、わたしたち人間に与え、それを受け取る者と親しく御交わりになる神様の御姿が記されています。本来の人間は、すべてを与える神様から只受けることで神様に感謝し、喜びの交わりの中に生き生きと、生かされていたのです。
ところが、そこに悪魔が偽りを吹き込んで来ました。人は、神様の御言葉をもって悪魔の偽りを退ければよかったのですが、彼にはそれが出来ませんでした。「自分も神のようになれる!」(「受けることで満足していたくはない。自分も与える者、神のようになりたい!」)。そう思い上がった瞬間に、神様との生き生きとした喜びの交わりは断たれてしまい、人は死ぬべき存在となりました。「罪」が神様との間に入り込んで、命の流れを止めたからです。聖書の言う「罪」。それは「的を外す」ことといわれます。わたしに必要な一切を、わたしが生きるために与えようとなさる真の神様からこの目と、耳、心を背けることです。そうすることで、わたしの内面は涸れていき、体は生きていても、神様と交わる霊の場所が死んでしまうのです。
わたしたち人間は、そのような「的外し」=「罪」の結果としての「死」を恐れ、滅びてしまうことへの恐れを内に覚えるものではないでしょうか。かつてわたしもそのような恐れを心の内側に抱えて歩いておりました。神などいない。神など要らない。自分を養うのは自分自身だ・・・。強情を張りながら、けれども心の内に飢え渇きを覚え、「滅びてしまうことへの恐れ」をどうすることもできずにいたのです。けれども礼拝の聖餐式の最中に、わたしは、「神はそのひとり子を御与えになったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)という御言葉を聞き、そのとき、「イエス様はわたしの主である」、と信じることができました。イエス様という御方が、「わたし」という鋭く太い「罪」の釘を、十字架の上で受け止めてくださっていることが分かったのです。「完全な愛」とは、「罪」の者をどこまでも受け止めてくださる「的」として、御自身を与え尽くされるイエス様であります。
この後、小林克哉先生の就任式となります。神様は、完全な愛である主イエス様に従い、教会に仕える僕として、小林克哉牧師を遣わされました。主を愛することは、主に従うことに通じます。小林克哉牧師の後ろ姿を通して、イエス様を愛し、イエス様に仕える札幌教会の歩みが確かにされていきますように。また、小林克哉牧師の後ろ姿を通して、互いに愛し、互いに仕え合う日々が増し加えられていきますように。主は札幌教会に祝福を豊かに注がれることでしょう。
(2022年6月19日礼拝説教より)