札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「見えない人がみえるようになり(ヨハネ27)」

更新日:2022.6.6

ヨハネによる福音書第9章13-41 節 (新184頁)

小林克哉 牧師

生まれながら目の見えなかった人は、見えるようになりました。肉眼だけのことではありません。徐々に見えるようになったことがわかります。信ずべきイエス・キリストのことが見えるようになるのです。
8節以下では、この人は肉眼の目は見えるようにされましたが、「イエスという方」(11節)と言い、まだイエスさまとの距離を感じますし、イエスさまがどこにいるのか「知りません」(12節)と言っています。13節以下では、ファリサイ派の尋問に対してはっきりと自分の身に起こったことを語り、まだイエスさまをメシア=救い主であると告白するに至っていませんが、「あの方は預言者です」(17節)と告白しています。24節以下ではファリサイ派の人々の脅迫に対しても「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(33節)とはっきり答えます。そしてイエスさまとお会いし、イエスさまが「人の子」(35節)、すなわち終わりの日に到来するメシアであることを、「主よ、信じます」(38節)と言ったのです。
わたしたちは見えていなかったところから徐々に見えるようになる。見えると思うと見えていなかったことに気付き、もっとはっきりと見えるようになっていく。それがキリスト者の歩みではないでしょうか。使徒パウロは言いました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(コリント一第13章12節)終わりの日に向けて徐々に徐々に見えるようになる。
ある年長のキリスト者の方がこんなことを言われました。「最近、やっと神が共におられるということが分かるようになった気がします。」勿論、神が共におられることをずっと信じてキリスト者として歩んで来たのです。しかし信仰者として齢を重ね、見えていると思っていたが見えていなかったことに気がつかされ、見えるようになったと言われるのです。わたしたちの歩みとはそのようなものでしょう。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)アーメン

(2022年5月29日礼拝説教より)

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