「神の業がこの人に現れるために(ヨハネ27)」
更新日:2022.5.30
ヨハネによる福音書第9章1-12節 (新184頁)
小林克哉 牧師
イエスさまと弟子たちが歩いていると、生まれつき目の見えない人が物乞いをしていました。イエスさまのほうから近づき語りかけられます。「『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰ってきた。」(7節)この人はイエスさまの言葉に従いました。目に塗られた土を洗うために、わざわざエルサレムの町の下にあるシロアムの池に行くようにと命じられたのです。はっきり、そうすれば見えるようなると言われたのではないのです。この人はよく理解し納得したから従ったのでしょうか。よく分からないまま、イエスさまの御言葉に従い、見えるようにされたのです。
町に戻ると人々は驚きました。人々はどうして目が開いたのかを尋ねます。この人は、「イエスという方」(11節)により見えるようになったと答えます。「人々が、『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は、『知りません』と言った。」(12節)イエスさまのことがよくは分かっていないのです。イエスさまは「神の業」についてこう言われています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6章29節)この人はまず肉眼が見えるようになりました。この章の終わりまで至るとイエスさまをはっきり信じるようになる。神の業が現れるのです。今日の御言葉は生まれつき目の見えない人が次第に見えていく神の御業が語られているのです。
呉で視覚障害があるキリスト者の方たちとの交わりを経験しました。愛唱聖句はこの3節の御言葉と言われる方が何人もいました。ここに登場する目の見えない人と共感するのは分かります。しかしこの人はイエスさまによって肉眼が見えるようになった人です。その意味での奇跡は経験していないのにです。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(3節)その方たちは、目は見えないまま、しかし神を信じ、イエス・キリストを信じ、見えるようになった救いの喜びをわたしに語ってくださいました。わたしたちにも神の御業が現れます。今も生きて働いておられる神の御業を見るのです。
(2022年5月22日礼拝説教より)