「神の教えを行うとは?(ヨハネ20)」
更新日:2022.3.28
ヨハネによる福音書6章60~71節(新176頁)
小林 克哉牧師
イエスさまを前に人々が二分しました。イエスさまは「うわべだけで裁くのはやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)と言われますが、人間が神を裁き、イエスさまを裁くことが起こりました。人は自分が思い描いていた神でなければ裁くものではないでしょうか。パンを増やし、病をいやし、問題を解決する神であればいいのですが、そうでなければ神に落第点を付けるのです。イエスさまは「わたしを憎んでいる」(7節)とまで言われています。目の前に神が人となって立っておられるの、人はそのお方を裁くのです。
自分をよく思っていない人の前に行くのは嫌なものです。イエスさまはご自身に対し殺意ある人々、憎んでいる人々、裁く人々の前に立たれます。ガリラヤに留まっていることもできたでしょう。しかし弟たちに言われたからではなく、ご自分の自由な意志により、エルサレム神殿の仮庵祭に行かれたのです。殺そうとする人、憎む人、裁く人に対してもイエスさまは神の教えを語られました。イエスさまが神から遣わされた者であるとは、神と一つなるお方、独り子なる神であるということです。神は今やイエス・キリストにより人々の前に立たれ、そのご臨在を示されたのです。
今日もイエス・キリストは立っておられます。わたしたちはこのお方の前にいるのです。宗教改革の教会は説教と聖餐を重んじてきました。それは説教と聖餐がキリストのご臨在を担うものだからです。説教を通して臨在のキリストが語りかけてくださいます。説教の前に人は二分されるのです。神の教えとして受け入れる者とそうでない者に。それでもイエスさまは語りかけてくださいます。聖餐の食卓はご復活の主のご臨在の食卓です。復活の主が、これはわたしの体、わたしの血と言ってパンと杯を与えてくださるのです。
次週の主日礼拝で洗礼を授けられる者があります。求道の期間は決して長くはないでしょう。しかし信じる者にしていただいたのです。そして聖餐の招きにあずかるのです。「イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。』」(16節)ご復活のイエスさまは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20章27節)と語りかけてくださるのです。
(2022年3月20日礼拝説教より)