「姦淫するな」
更新日:2016.5.2
マタイによる福音書5章27-32節(新P7)
牧師 米倉 美佐男
「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」(29節)ユダヤ教学者の教えとは異なる、キリスト者の正しい義なる生活の第二番目にとりあげられたのが十戒の第七戒の「姦淫するな」でありました。主イエスは言います、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(28節)
これに対する処方箋が示されます。それは自分で自分自身の悪い所を断ち切れと言うのです。他人が気づいても本人の自覚がなければ治りません。病気の類も同様です。本人の自覚、悔い改めが必要です。同時に覚えておくべきことは、私たちはせいぜい自分にささったとげを抜くことはできても、それ以上のことは難しいということです。この問題はそれほど大きな問題なのです。誘惑はワンパターンではなく手を変え品を変えいろいろな仕方でやってきます。
今一つ、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」、申命記24章1節以下の要約が取り上げられます。ただ離縁状を出せばそれで済むのではありません。むしろ、離縁はしてはならない、それは妻に姦淫させてしまうことになり、それだけでなく、離縁された女を娶る者も同じ罪を犯されることになるから。事情が現代とは大分異なりますが離婚はできることならしない方がいいのです。神の創造の秩序、キリストと教会の関係の両面からみても。主イエスが言われていることは相手を考える、相手への配慮が大切だということです。過ちは過ちとして正す必要はあります。ただ悔い改めるならば赦して迎えるのです。赦すことは容易ではありません。自分すら赦すことができません。けれども私たちも赦された存在です。大切なのは、私たちが赦すのでなく、主の赦しです。それによって私たちは生かされるのです。
(2016年4月24日復活節第5主日礼拝説教より)