「主にかえられぬものはない(ヨハネ5)」
更新日:2021.11.15
ヨハネによる福音書2章1-12節(新164頁)
小林克哉 牧師
ガリラヤの町カナで行われたその婚礼にイエスさまと弟子たちも招かれました。そこで一大事が起こったのです。ぶどう酒が足りなくなったのです。あってはならないこと、花婿にとって一生の恥となることでした。「母がイエスに『ぶどう酒が足りなくなりました』と言った。」(3節)
それに対してイエスさまはこう言われたのです。「イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(7節) 百リットルの水がめを考えたらよいでしょう。そこに水をくんで入れなさいと言われるのです。イエスさまは何の説明もされないのです。何のためにそれをするのか説明をし、理解してもらってというのがコミュニケーションとしてよいのではないでしょうか。イエスさまはそうなさいませんでした。
わたしたちはなぜこんなことをしなければならないのかとしばしば思います。どうしてですか? 何の意味があるのですか? わたしにどんな得があるのですか? 札幌教会で仕え始め2ヶ月が過ぎました。正直、目の前にあること、起こることを淡々とこなすだけです。主がしなさいと言われていると思って、よく分からないまま一つ一つのことをしているだけかもしれません。考えてみますと、主を信じて生きるわたしたちの日々の営みは、どんな意味があるか理解できること、納得してからできることは案外少ないのではないでしょうか。ただイエスさまの御言葉に従って水をくみ、水がめに入れる。
「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。」(8-9節)神の栄光に気づくのは誰か。ただ主の御言葉に従って水をくんだ者だけが知るのです。他のものが気づいていないそのところで知り、神の栄光をたたえるのです。これは主の御業だと。主に変えられぬものはないのです。水をぶどう酒に変えられるお方は、わたしたちを救い造り変えることがおできになるお方です。
(2021年11月7日礼拝説教より)