「信仰なき時代の信仰」
更新日:2021.10.27
聖書マルコによる福音書9章14-29節(新163頁)
小林克哉 牧師
今朝は幼児祝福合同礼拝です。今朝の御言葉で、イエスさまは一人の子どもを助けることできず、ただ議論していた人々に言います。「なんと信仰のない時代なのか。…その子をわたしのところに連れてきなさい。」(19節)
ある父親が汚れた霊に取りつかれた息子を連れて来て、弟子たちに助けてほしいと願いました。弟子たちは自分たちでどうにかしようとしたのです。イエスさまが戻って来られるのを待たなかったし、どうにかしてその子をイエスさまのところに連れて行こうともしなかったのです。弟子たちはその子を助けることはできませんでした。律法学者は議論を始め群衆は見物していました。イエスさまは<わたし>のところに連れてきなさい言われます。
わたしたちは信仰なき時代に生きています。昔は信仰があって、今は違うのかと言えば、聖書の時代も信仰なき時代であるとイエスさまはおっしゃるのです。宗教が盛んでも信仰なき時代であり、科学が当然の時代は信仰がないということでもないのです。信仰なき時代とは、マコトの神なしに、主イエスさまなしに生きることです。「なんと信仰のない時代なのか。…その子をわたしのところに連れてきなさい。」(19節)
その子はイエスさまのもとに連れてこられました。父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(22節)と言いました。イエスさまが「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(23節)と言われると、父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24節)
主イエスさまは語りかけてくださいます。それによって人は「信仰なきわたし」であることに気づくのです。イエスさまはわたしたちのその不信仰の罪が赦されるため十字架で贖いの死を遂げてくださるのです。信仰とは、信仰なきわたしが、神なしに生きているわたしが、イエス・キリストに呼びかけられていることに気づき、「信じます」とお応えすることです。罪赦され信じて、神により悪しき力から解き放たれた人生へとわたしたちは変えていただくのです。
(2021年10月17日礼拝説教より)