「《灯台》「キリストの十字架を信じる」 」
更新日:2021.8.16
ガラテヤの信徒への手紙3章1-6節
函館教会 松本紳一郎牧師
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」という乱暴な言葉遣いには、ガラテヤ教会の人々を非難するパウロの激しい感情が現れています。「物分かりが悪い」という言葉は、「ものの道理がわかっていない」「無理解な」という意味です。主イエスが、エマオへ向かう弟子たちにおっしゃった言葉も同じです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24章25、26節)。どちらも、キリストの十字架の事実と恵みがしっかり受け取られていないことに関係しています。パウロは、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからでしょう」言います。ガラテヤの人たちは、洗礼を受け、信徒とされたときに、聖霊を受けました。聖霊を与えられて神の子とされたことは、自分たち人間の業によって獲得した資格や身分ではなく、父なる神が、恵みによって与えてくださった奇跡にほかなりません。
わたしたちも、自分の力ではなく、聖霊が働いて初めて神の前に罪を認めて悔い改めることができました。そして、自分の力をはるかに超えた大きな体験を与えられました。それは、罪に支配された生き方、つまり、自分を守り、自分に固執することから逃れられない、自分を神にしていた生き方から解放された経験です。キリストに罪を赦されて自由を得た経験です。律法に縛れていたわけではないわたしたちも、品行方正とか立派な行いとかという人間の業をもって救いを完成させようとしたら、キリストの十字架を無駄にしてしまうことになります。
キリストの十字架は、思索の産物や象徴ではありません。実際の歴史の中で父なる神が御子に下された裁きの出来事は、復活と一体で切り離すことはできません。十字架の恵みを否定するとき、わたしたちは復活の力をも否定して、人間の業に頼る者に逆戻りしてしまいます。
(2021年8月8日礼拝説教より)