「誓いを立てるな」
更新日:2016.5.9
マタイによる福音書5章33-37節(新P8)
牧師 米倉 美佐男
キリストにある者の正しい義なる生活の第三番目は「誓い」についてです。主イエスは誓いについて、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」(33-34節)。旧約聖書は主の名による誓いそのものを否定していません。ただ、主イエスは誓いっぱなしで守らないような、偽りの誓いはだめと言うのです。
だから、初めから守ることのできない誓いはするなと言われます。偽りの誓い、人間の恣意的誓いは却って神の御旨を損ない、神の御名を汚します。主の名を語っていい加減な誓いをすることは不信仰です。何も語ってはならないか、もしくはすべての言葉に誠実に実行するかであります。誓いを人間の勝手で都合よくこれは絶対守らなければならない、これは多少守れなくても仕方ないなどとしてはならないと言われるのです。
誓いは破ってはならないけれども主の名を用いないで誓ったものは破っても仕方ない、誓う時に指さす物が主の名か供え物か、祭壇か、だんだんと神様から遠ざかれば誓いの拘束力が減るような解釈はおかしいのです。「然り、然り」「否、否」と言いなさい。主イエスのお言葉はあらゆる誓いを禁じたと言うより、主が「誓うな」と言われたのは、主の名をもって誓うのでなければ誓いを守る義務はないと考え、天や地、エルサレム、頭をさして軽々しく誓っていた当時のユダヤ教の姿勢に対する痛烈なお言葉でありました。主イエスは誓いそのものを禁じたのではないのです。守らなくてよい誓いを作ってまで誓いをするなと言われるのです。うそまでついて誓うことによってカモフラージュするのでなく、イエスかノー、然りか否だと言われるのです。つまり言葉には責任をもって誠実と真実をもってと語れと言われるのです。
(2016年5月1日復活節第6主日礼拝説教より)