「主の晩餐」
更新日:2021.1.22
コリントの信徒への手紙一11章17-24節
米倉 美佐男 牧師
「わたしがあなたがたに伝えたことは,わたし自身主から受けたものです。」(23節)
「教会とは何か」ということを念頭におきながらパウロが生涯と命をかけて建て続けた教会を見て参りましょう。今朝の箇所でパウロは主の晩差を取り上げます。教会内にある仲間争いや不一致が現実の教会生活を危うくしている。これについての戒め(17-22節)、主の晩餐の制定(23-26節)、主の晩餐にあずかるふさわしさ(27-34節)がここで語られます。
前回はコリント教会の人々を、自分が言い伝えた教えを守っているから立派だとほめました。ところがここではほめるわけにはいかないと言います。主の晩餐の意味についてコリントの教会のメンバーが正しく受け継いでいないことを憂えているのです。人間の集まりなのだから群れの中に多少の揉め事はあるだろう、でも主の晩餐を汚すような教会生活を乱すことは黙認することはできないと。
パウロが伝えた主の晩餐に関して、教会のあるべき姿はあなた方に伝えた。それはみな私自身も主から受けたことだった。あなた方は主の晩餐と、自分の晩餐をきちんと区別して、特に裕福な者生活に余裕のある者たちは教会生活を大事にし、貧しい者、弱い者に恥をかかせないように、家でできることは家ですませてから教会に来るように努めなさいと言います。それは教会本来の働きが何かということを共に求めて歩みなさいということです。そして今ここで献げている礼拝を教会生活の第一に据えて歩む姿を共に祈って求めて行こうと勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲んだりする者は、主の体と血
に対して罪を犯すことになります。」(27節)。何がふさわしいか、主の体なる教会のふさわしさ、仲間割れ不一致はふさわしくないのです。喜びをもって主に仕える共同体は、自己中心的でなくキリストを中心にした生ける主の体として召されているのです。頭を垂れて喜びと感謝をもって聖なる主の晩餐に与りましょう。
(2021年1月17日礼拝説教より)