「祈るときにも」
更新日:2016.6.13
マタイによる福音書6章5-15節(新P9)
牧師:米倉 美佐男
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」(5節)
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。ここでいう偽善者たちとは当時の律法学者やファリサイ人のことです。主イエスの言葉はただ彼らだけでなく、その時、そして今日もまた主の言葉を聞いている者たちに向かって語られているのです。
クリスチャンとしての義なる生活の第2の具体例が「祈り」です。「施し」、「祈り」、「断食」と続きます。祈りは神との会話です。祈りの姿は崇高です。ただ、祈りの生活においても注意すべきことがあります。祈りについての戒めの第一は人に見せるためのものではないということです。父なる神だけを意識して祈るのです。「奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め」て祈るのです。祈りは神との対話であるから他者の入り込む余地はないのです。第二の戒めは「異邦人のようにくどくど祈るな」です。言葉数が問題ではないのです。
求める祈りは聞かれます。私たちに必要なものは主がすべてご存知です。必要なものは必ず備えて下さいます。祈りの基本は神に対する感謝であり、讃美です。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネの手紙 −5・14−15)。
続けて主の祈りが「こう祈りなさい」と教えられます。その中身についての解説は省略します。結論部分の14、15節を見て終わります。「過ちを赦す」、既に私たち自身主の十字架によって負い目を赦された存在なのです。そこに立つことができるように祈りましょう。
(2016年6月5日主日礼拝説教より)