「将来の栄光」
更新日:2020.1.27
ローマの信徒への手紙 8章18-30節 (新約284頁)
米倉 美佐男牧師
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」 (30節)
パウロは「わたしは思う」と語り出します。彼が好んでよく使う言葉です。この言葉を使ってパウロが言おうとしたことは今の時の苦しみの先にあるものが確かにあるということです。即ち神の栄光、信じる者たちへの救いの確かさです。
6日から16日まで冬期休暇を頂き、上京いたしました。研修と母の納骨、友人の見舞いと多目的な時でした。見舞った友人はまるで私が来るのを待っていたように見舞った翌々日亡くなりました。
通夜に参列することができました。仏教では死は苦から解放されて極楽浄土、西方浄土へ還ると言います。苦は四苦八苦で知られています。四苦は生老病死、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得(ぐふとく)苦、五陰盛(ごおんじょう)苦の四つを加えて八苦になります。死はその苦からの解放と法話がありました。
今朝の記事も苦しみからの解放が語られています。被造物としての肉体は滅びます。この世に誕生したものは皆等しく迎える死です。肉体は滅びます。しかし、滅びないものがある。パウロは今の現実ですべてが終わるのではないと言います。死の先にあるものがある。それは救いの確かさだと。キリストを信じる者は神の子とされ、神をアバ、父と呼ぶ者とされている。キリストによってそうされた。そこに希望があるのだと。不完全な、罪深きこの私が、キリストの憐れみによって神に属する者として生かされる、そのことが何にもかえがたい恵みとして与えられているのです。見えるものではなく、見えない者に目を注いで生かされましょう。主の執り成しを受けて。
(2020年1月19日礼拝説教より)