「だれがわたしを救ってくれるのか」
更新日:2019.11.11
ローマの信徒への手紙7章14-25節 (新約283頁)
米倉 美佐男牧師
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(25節)
今日の聖書個所を読んでいて先ず浮かんできたのは矛盾でした。パウロがここで言っているのも信仰生活における盾と矛の関係、信仰と行い、律法と福音の問題なのです。
信仰者は「自らが罪人(つみびと)である」と言うことを自覚することが大事です。万人祭司という言葉はよく知られていますが、聖書は万人罪人と言っています。私たちは自分の罪を見ようとしない、認めようとしないのです。言葉では言いますが相手を責めても自分に帰すことは殆どないのです。他人の目のおがくず(ちり)は見えるのに自分の目の丸太(梁)に気づかないのです。
パウロは自分自身の罪の姿を全部さらけ出します。肉体を持っている以上、罪の支配下にあったと赤裸々に告白します。律法は神から出た霊的なものであることも知っている。ところが現実の自分は望むことは実行しないで、憎んでいることをしてしまう。悪いことを現にしていると認めることは、律法は良いものと認めて従おうとしていること。だから今悪いことをしているのは私だが、それは私パウロそのものではなく、私パウロの内にある罪の仕業だと。同じ私の内に、善と悪が同居していると。
自分には残念ながら善をなす力がない。善なるものは神から来る。善をしようとする意志はあるが行う力がない。望んでいる善は行わず、望まない悪を行っている。これが今の私だ。悪の霊に捕らわれ、罪の力にがんじがらめにされて、善を行うことができないで罪のとりこにされている自分を見ているのです。そのような自分の状態を認める時に、このようなみじめな私を救ってくださったお方がおられる。彼はそこに到達したのです。「だれがわたしを救ってくれるのか」、それは私たちが信じる主イエス・キリストです。その信仰が私たちを救い本当の平安を頂けるのです。
(2019年11月3日礼拝説教より)