「怒りを発する神は正しくないのですか」
更新日:2019.7.22
ローマの信徒への手紙 3章1-8節(新約276頁)
米倉 美佐男牧師
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」(28節)。
3章は、ユダヤ人異邦人関係なく人間はみな罪人だと論じています。ただここではユダヤ人側から提起されたことへの応答を語っています。ユダヤ人には優れた点があるとパウロは言います。神の言葉が委ねられたことと割礼の二つがユダヤ人に託されている。アブラハム、イサク、ヤコブと代々受け継がれ、モーセを経て連綿と続いてきた神の民としての歩みがあります。その根本が指摘されます。それはユダヤ人としてのパウロ自身の自負でもありました。
その同胞からキリストを信じるに至ったことで排除され、阻害される痛い目にあったこともパウロの苦痛でした。民族的歴史の歩みの中でユダヤ人たちは自分たちは神に選ばれ、大きな使命を与えられた民族だと思っていました。その最大の事が神の言葉が委ねられたという事実です。けれどもそれはユダヤ人が自らの力で獲得したものではありません。神から与えられたものでした。それなのに、ユダヤ人のある者たちは不信仰にも契約を破ったり、神の民としてふさわしくない姿を露呈したのです。
だからと言ってその事で神の誠実が無になるのか、そんなことは断じてありません。人間の愚かさによって神の真実が損なわれることはないのです。人が神を裏切っても神は人を裏切りません。神の義は人の罪を裁きます。人の不信仰は神に裁かれます。神の裁きは確かです。屁理屈を並べて善を生じるために悪をしよう、などと誤った風聞を流す愚は避けねばならないのです。
人間が不義であればあるほど神の義の正しさが明らかになるのです。神は正しく裁き正しく人を生かすお方です。不信仰な者が裁かれるのは当然です。教会に招かれた私たちも神の言葉を新しく委ねられたのです。ユダヤ人の陥った誤りに自らを貶めてはならないのです。
(2019年7月14日礼拝説教より)