「神の正しい裁き」
更新日:2019.7.8
ローマの信徒への手紙2章1-16節 (新約274頁)
米倉 美佐男牧師
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」(13節)。
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節)。パウロが生前のイエスに会えたのはゴルゴダの丘の十字架の時でした。後は有名なダマスコ途上で復活の主イエスと出会いました。そこで彼は回心したのです。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに、救いをもたらす神の力だからです」(1・16)。彼は伝統的なユダヤ教世界の中で生粋のユダヤ人エリートとして育ちました。先に人の罪について語り、ここでは「すべて人を裁く者よ」と呼びかけ、その罪の指摘をします。呼びかけられているのは明らかに同胞であるユダヤ人に向けてのものです。
救いを得るために先ず自らの罪を認め悔い改めることが必要です。ユダヤ人は異邦人を裁いて、自分自身は誤りがないように振る舞っているとパウロは指摘します。同じ人間が神のように偉そうに他者を貶めてはならないのです。ユダヤ人に異邦人を裁く資格はないといいます。ユダヤ人のかたくなさは不信仰です。以前彼は信仰だけでいいと言いました。ここでは行いが必要だと言います。救いは神の業です。裁きも神の業です。神に救われた者は、本気で主を信じ生かされるなら善行が伴うと彼は断言します。律法の有無でなくその意味を正しく捕らえ、行っているかが問題なのです。最後の審判の時を思い主に委ねるのです。他者の善悪を裁く前に自らの不完全さを認めましょう。完全な神の御手の内に守られて生かされているのですから。
(2019年6月30日主日礼拝説教より)