「足ることを知る」
更新日:2019.4.15
フィリピの信徒への手紙4章10-12節(新約366頁)
米倉 美佐男牧師
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」(11節)。
パウロはフィリピ教会の心遣いを喜び、感謝をしています。その喜びは主においての喜びでした。獄中にあったパウロをフィリピの教会の人たちが物心両面に亘り援助したからです。パウロはそれを自分個人のためではなく、主のためにあなたがたがしてくれたことだと言いました。パウ
ロは自給伝道者です。テント作りで生計をたて原則的には謝礼や寄付を受け取りませんでした。特例としてフィリピ教会からの援助は受け入れたのです。それだけ密な関係でありました。
11節は口語訳では「足ることを学んだ」と訳されています。足ることを学ぶ、満足する(ギリシア語・アウタルケイア、自分だけが満足するという意味)の言葉です。別の手紙で「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(1テモテ6章6-8節)と記しています。
どんな時にも足ることを知る生活、それを身に着けたので「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(12節)。私たちは裸で生まれ、また死ぬ時も何一つ持たないでこの世を去って行くのです。私たちの命は神から与えられたもので自分のものではないのですから主のために生きるならば必要な物は満たされる、主が備えて下さるのです。パウロは彼への援助を個人へのものとは受け止めず、伝道者として好意を持って受け入れたのです。すべて神の栄光のために。
(2019年4月7日主日礼拝説教より)