札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「葬り」

更新日:2018.10.15

マタイによる福音書27章57-66節(新約P58)

牧師 米倉 美佐男

午後三時に主イエスは十字架の上で息を引き取られ、夕刻にご遺体を引き取られます。引き取りを申し出たのはアリマタヤのヨセフです。金持ちでサンヘドリンの議員、イエスのシンパで、マタイはイエスの弟子であったと記しています。いずれにしてもペトロを始めとした弟子の姿はなく、女性たちも直接には何もできずただ見守るだけでした。

ヨセフがピラトに掛け合い、イエスの亡骸を手厚く包み、まだ真新しい自分のお墓にイエスを葬ったのです。墓の入り口を大きな石でふさぎました。あくる日、土曜日に祭司長、ファリサイ派の人々が集まり、イエスの弟子たちが遺体を盗みに来るかもしれない、イエスは死者の中から復活したなどと言いふらすかもしれない、等と不安を抱き、彼らは墓の石に封印をし、番兵をおいて見張らせたのでした。

マタイは先に神殿の幕が真っ二つに裂けたことを伝えています。それはユダヤ教の神殿の崩壊を示唆し、ユダヤ教の崩壊を意味し、ユダヤ当局が、イエスが亡くなられたにもかかわらず、ことさらに噂を恐れ、その日が安息日であるにもかかわらず、自分たちの地位保全を図るためには律法規定遵守など破ることは何でもないかのようなことを命じている体たらくもまたユダヤ教の終焉を意味するような書き方だと言えます。

ここに大きな提起があります。それはイエスが葬られた墓、厳重に警備され、いったん閉じ込められれば、だれかが開けなければ開かない封印された墓からは何も起こりえない。誰しもがそう思い、外側からせいぜい見守るしかないこの場所から何かが起こる、そんな期待を主が葬られた墓は醸し出すのです。そして、私たちは今、主の葬りを通して墓が人生の終着点ではないことを知らされるのです。死と葬りの後に何が起こるのかを。

(2018年10月7日主日礼拝説教より)

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