「十字架」
更新日:2018.10.1
マタイによる福音書27章27-44節(新約P57)
米倉 美佐男牧師
ヴィア・ドロローサ十字架背負いて一歩ずつ
主イエスの十字架の場面です。今朝は十字架の場面を直視します。総督ピラトは主イエスの死刑をためらいながらも自分の身を守るために刑の執行を命じます。刑の執行のために兵士たちはイエスを総督官邸に連れて行き、主イエスの着衣をはぎとり、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱したのです。
そして外套を脱がせ、元の服を着せ、十字架に着けるために引いて行きました。途中キレネ人シモンに十字架を担
がせ刑場のゴルゴダ(されこうべの場所)まで行かせます。三本の十字架がゴルゴダに立てられ、イエスは真ん中に、左右には二人の強盗がつけられました。兵士たちはくじを引いて主の服をわけあいました。通りかかった人々は「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(40節)とののしりました。
祭司長、律法学者たち、長老たちも一緒に「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(42-43節)と言い、両側の強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。ここにはイエスのお姿ではなく周りの人々のののしりだけが記されています。だからこそすべて受け止めてくださった主の大いなる愛が鮮明に浮かび上がります。十字架を仰ぐ時、一切のものが言葉を失い、そして次に得るのが主の大いなる恵みと慈しみです。それが主イエスの愛です。主我を愛す。主は強ければ、我れ弱くとも、恐れはあらじ、です。
(2018年9月23日礼拝説教より)