「わたしは罪を犯した」
更新日:2018.8.16
マタイによる福音書27章1-10節(新約P56)
牧師 米倉 美佐男
「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)。
ゲッセマネの園で捕えられた主イエスはユダヤ人の最高議会であり同時に最高法院であるサンヘドリンで裁かれ、祭司長から強引に死刑判決を受けます。ユダヤ当局は執行権がないために、ローマ帝国の行政執行を求め、総督ピラトにイエスの身柄を引き渡しました。ここで一つの出来事が記されます。ユダのことです。彼は自らの命を絶ちました。福音書ではマタイだけが記しています。
ユダはイエスに有罪の判決が下ったのを知り、後悔し、手にした銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとしましたが突き返されました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と後悔しましたが時既に遅しです。祭司長、長老たちは「我々の知ったことではないお前の問題だ」とけんもほろろです。ユダはやけになり、銀貨三十枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。
後日談として書かれているのは、ユダの残した銀貨で祭司長たちは土地を買いました。その土地は「陶器職人の畑」であったもので外国人の墓地にしました。この地は血の畑(アケルダマ)と呼ばれています。聖書はこの出来事も預言の成就だと言っています。それは十字架の出来事が神のみ旨であるという証です。もう一つの意味があります。それは「罪」の問題です。象徴的にユダの自殺です。彼の死は永遠の滅びです。イエスの死刑判決後、ユダは後悔します。けれども真の悔い改めへとは至りません。罪の問題がここにあります。大切なのはイエスとの関係においてイエスに対して罪を犯していると受け止める時に、初めて自分の罪が赦されたことを知るのです。そのセンスがないと赦されてうれしいという感謝はなく、ただ自己中心の後悔にしかならないのです。主イエスの十字架に私たちが身を委ねるときにそこに真の平安が与えられるのです。
(2018年8月5日主日礼拝説教より)