「ゲッセマネの祈り」
更新日:2018.7.17
マタイによる福音書26章31-46節(新約P53)
牧師 米倉 美佐男
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39節)。
ゲッセマネ(油しぼり)の祈りは臨場感が良く伝わってきます。そこでの祈りに先立ち、ペトロがイエスとの関わりを三度否認することを告げられました。イエスは弟子たちがみな自分につまずくと告げ、自分は復活し、先にガリラヤへ行くと言います。その時ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言います。しかし、主はペトロに、今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろうと告げました。
ペトロはむきになって否定しますが結果はその通りになってしまいました。他の弟子たちもみな同様の経験をしたのです。それを踏まえて、ゲッセマネ(油しぼり)の園での祈る主のお姿がありました。主イエスは祈りのためにそこに行かれました。最後の晩餐を終えて弟子たちと祈るために行かれたのです。そしてそこで捕らわれの身となりました。
ゲッセマネに着いた時、主は弟子たちに「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(36節)と命じ、ペトロとゼベダイの子二人を伴われ、悲しみもだえ始められ、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(38節)と言われ、少し進み、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(39節)と祈られました。主が祈って弟子たちのところへ戻られた時、彼らは眠っていました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(40節)。主が三度も「あなたの御心が行われますように。」と祈られました。そのことを忘れてはなりません。
(2018年7月8日礼拝説教より)