「不幸なるかな、偽善者」
更新日:2018.4.16
マタイによる福音書23章13-36節(新約P45)
牧師 米倉 美佐男
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。」(13節)
この箇所は先に山上の垂訓で七つの幸を語ったのに対して七つの不幸が語られています。「ああ」と言う悲しみを含む嘆きの言葉です。不幸は13、15節で律法学者、ファリサイ派の教え全体の誤りを指摘します。人々を天の国に招かず門を閉ざす誤り。それは彼らが神と正しく結ばれていないから。また、当時のユダヤ教は異邦人伝道に熱心で改宗した異邦人は、ユダヤ人より過激にキリスト教徒を教会を迫害し、地獄の子と呼ばれたのです。
16-24節には不幸として誓いのこじつけが指摘されます。神殿より黄金、祭壇より供え物を尊ぶ姿勢、それに対し主イエスは黄金より神殿、供え物より祭壇、さらに神殿、祭壇よりも神を尊ぶべきことを示されました。神を抜きにしては、神殿も祭壇も供え物も黄金もみな意味がないからです。いくら十分の一の献げものをしても律法の中でもっと重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしていては意味がないのです。
不幸についての最後の言及は25-33節に示されるファリサイの姿勢です。うわべは繕ってきれいにするが内側(心)が真っ黒、白い墓のことも同じです。彼らは先祖の犯した誤りを反省し懺悔するどころか、同じようにメシアを十字架につけ手を汚そうとしている。その誤りはぬぐいさることはできない。みな自分にふりかかってくる。選民イスラエルを自負する者たちが真のメシアを拒むこと、その偽善こそが不幸なのです。
幸いなるかな、心の貧しき者よ、天の国は汝のものなり。真にアーメンであります。
(2018年4月8日主日礼拝説教より)