「いと小さき者と共に」
更新日:2017.11.20
マタイによる福音書25章31-46節(新約P50)
宣教師 ディヴァン スクルマン
今日の聖書箇所には山羊と羊を区別するということが語られています。王は語りかけます。「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」(37節)そして「王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(40節)ここで主イエスが「最も小さな者たち」と言っておられるのは、どのような人のことをさすのでしょうか。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(10章42節)小さき者にした小さな行為の一つでも「わたしにしてくれたことなのである。」と主イエスは言われます。小さな者ひとりとは信仰者、私たち一人ひとりのことです。その私たちに、誰かが水一杯でも飲ませてくれたら、永遠の命を得ると言われたのです。主イエスによって「小さい」と言われるのは、弟子たちが、主イエスの弟子であったからです。主イエスの弟子であるためには、十字架を負うからです。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(10章38節)
弟子たちは主の弟子となることによって、「小さい者」とされました。「小さい」とは「主イエスと共に生きる」ことです。主と共に生きる共同体は教会です。主イエス・キリストは教会としてこの世に存在するのです。私たちは、神の御言葉を聞き、教会に生きる時、「小さな者」の強さに生きるのです。私たちの小ささとは、弱さです。神の前に出た時に、私たちは自分が弱い者であること、貧しい者であり、主の支えがなければ生きることができないことを知るのです。主が共にいて、傍らに立ち、慰めを語り、希望を与え、喜んで生きる者としてくださいました。この小さな私を受け入れてくださった神の愛にあなたがたも生きるようにと招いてくださっています。いつも足りなさを感じながら、罪を覚えながら、それでも主が支え、生きる意味を与えてくださいます。
(2017年11月12日主日礼拝説教より)