「ぶどう園のたとえ」
更新日:2017.11.13
マタイによる福音書20章1-16節(新約P38)
牧師 米倉 美佐男
たとえが語られます。ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇う、最初は夜明けに、報酬は一日一デナリの約束。次に9時、広場に行くとまだ人がいたので、ふさわしい賃金を払うからと誘い、さらに同じ条件で12時、3時とぶどう園に送った。最後、5時ころにまた行くと、まだ人がいた。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、「だれも雇ってくれない。」と言う。そこで主人はこの人たちもぶどう園に送り込んだ。条件を提示せずに。
夕方になって、主人はぶどう園の監督を呼び、最後に来た者から順番に報酬を払うように命じた。5時から働いた人にも1デナリオンが支払われた。途中から来た人にも最初から働いた人にも同じ1デナリオンが支払われた。すごく気前の良い主人です。ところがクレームがつきます。憤懣やるかたないのは夜明けから一日フルで働いた人でした。何で私たちが彼らと同じ報酬なんだ。朝も早くから働いて日中の暑い時も汗だくになって働いたのに、楽して働いた者と同じでは割に合わないと。
ある意味もっともな抗議です。けれどもよく考えてみよう。主人は約束を破っていません。払われる報酬はもともと主人のものです。労働者の権利は約束の自分の取り分だけです。それなのに他者との比較をして、もっともらえるはずだと期待したのは彼らの勝手な思い込みだった。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」(13,14節)という主人の言い分は間違っていません。主イエスの下さる恵は、時の長さや量で測ることはできません。交わりによって与えられる主の恵はみな等しく与えられるのです。報いを自分で求めるのでなく、与えられたものに感謝をすることを忘れてはならないのです。気前良い主の恵みをほめたたえるのです。
(2017年11月5日主日礼拝説教より)