「神が結び合わせてくださった」
更新日:2017.10.16
マタイによる福音書19章1-12節(新約P36)
牧師 米倉 美佐男
主イエスが十字架に向かっての歩みを一歩一歩進める中で、内に外に主の前進を阻もうとする力が何度も働きます。今回も主イエスに反感を持ち、敵対するファリサイ派の人々がイエスを試そうと近寄って来て問います。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか.」(3節)。ここで何故離縁問題を持ち出したのか意図がよく分かりませんが、イエスを困らせるための難癖だと言って良いでしょう。根拠は申命記24章1節です。
これに対し、主イエスは真面目に対応されて答えられています。答えは創世記の1、2章の創造物語からです。理由があればいいのかというファリサイの問いに対し、結婚は神の創造の秩序において神において結ばれたのだから人の都合で勝手に離してはならないと言われます。夫と妻の一体性が大事だとされる考えそのものが当時の考えでは画期的でした。強い絆で結ばれているのが結婚です。それが神に祝された人間の現実の様なのだと。
ファリサイは言います。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」(7節)、主イエスのお答えは、第一にあなたたちの心が頑固であること、第二に不法な結婚でない限り、勝手に人間の都合で離縁し、他の者を妻にするのは姦通罪だと言われます。この話を聞いて反応したのはなぜか弟子たちでした。彼らが言うには「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(10節)。身内の弟子たちでさえ、イエスの言葉を自分の思い思いでしか受け止めていませんでした。イエスは言われました。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。・・・天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(11-12節)。主の御言葉を素直に聞く姿勢、御旨が何たるかを求める在り方が求められているのです。
(2017年10月8日主日礼拝説教より)