「不信仰」
更新日:2017.5.29
マタイによる福音書13章53節-14章12節(新P27)
米倉 美佐男 牧師
「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」(13 章58節)
今読んでいただいた聖書に書かれているのは、イエスが故郷ナザレで伝道した時の様子、今一つはガリラヤでのヨハネ処刑の出来事です。そこに示される共通の事は人間の不信仰の姿です。いかに人間の罪が深いかが示されます。
イエスが譬えを用いて語り終えて、故郷ナザレに帰られた時、故郷の人々はイエスがどこでどのように、聖書を説く知識、知恵、奇蹟を行う力を習得したのかという事でした。大工のヨセフとマリヤの息子がどうして。イエスの力を認めながら故郷の人たちは歓迎しなかった。イエスにつまずいた。それは神の力を信じなかった、罪を犯した、と福音書記者はいうのです。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。」(ヨハネ1・11)。
続く出来事はヨハネの処刑です。イエスが現れて活動していることをヘロデも知っていました。ヘロデはイエスをヨハネの再来と思いました。それ以前ヘロデはヨハネを捕え、その首をはねてしまい悩んでいました。兄弟フィリポの妻ヘロデヤを奪い、妻にしたことで、ヨハネから断罪され、ヨハネを捕え殺してしまったのです。彼にとっては大変後味の悪い心の深い傷でありました。どんなに悔やんでも消えない心の深い傷です。いくら悔やんでも本当の悔い改めがない限り、自分の罪を正当化することしかできません。それが不信仰の姿です。ヘロデはイエスの評判を聞いてすぐにヨハネと結びつけたほど自分のしたことを後悔していました。けれども、悔い改めて一歩足を前に踏み出すことができないのです。聖書はそれを不信仰だと言うのです。主のみ前に立つ時、私たちも自らの不信仰な姿を認めざるを得ません。だからこそ主の十字架を見上げてそこに唯一の赦しがあることを信じて歩むのです。
(2017年5月21日主日礼拝説教より)