「主にふさわしい者」
更新日:2017.2.27
マタイによる福音書10章32節-11章1節(新P18)
牧師 米倉 美佐男
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(38-39節)。
主にふさわしいとはどういうことなのだろう。読まれた箇所には主に従う者はイエスの仲間であることと従うことの意味、そして信じた者に与えられる報いが語られています。 いつでもどこでも主イエス・キリストを信じ受け入れる者がキリストにふさわしいのです。キリスト者はいつもキリストをこの身にまとっている。キリストを着ているのです。
11章1節「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」とあります。前章で神の国の伝道に関する教えをまとめてそのように記しています。伝道の方法、伝道者の忍耐、伝道によってどのように信者を育てるかが語られます。伝道は単に勢力を拡大する運動ではなく、どのような信仰者を育成するのかです。
地上に平和をもたらすために来たと思うな、平和でなく剣をもたらすために来た。随分過激な言葉が語られます。主は何を言おうとされたのでしょう。聖書はメシアが平和をもたらしてくれることを語っています。メシアは平和の君とも呼ばれています(イザヤ9・6、ミカ5・4-5、エゼキエル34・24-25)。どうして主は、家族同志でいがみ合うようなことをお語りになられたのでしょう。本当の救いを求める時に何を捨て何を求めるのかが問われます。本当のシャローム、平和を得るために何が必要か。35、36節はミカ書7・6の引用です。無秩序の現実、それが混乱のもとです。平和の君が来たにも拘わらず、その伝道を受け入れない現実が描き出されます。主にふさわしい者となるために平和の君の福音に生かされるのです。
(2017年2月19日主日礼拝説教より)