「最初の教えにとどまる」
更新日:2017.1.30
テサロニケの信徒への手紙二 2章15-17節(新P381)
牧師 大住 雄一
主イエス・キリストに結ばれて、確実な救いに入れられた私たちは、どのように生きていたらよいのだろうか。キリスト者に相応しい生き方というものがあるのだろうか。例えば、申命記律法は救われた者に対して命じる。
イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道を常に歩み、主を愛し、あなたの神、主に心を尽くし、精神を尽くして仕え、わたしが今日あなたに命じる主の命令と掟を守り、あなたが幸せになることではないか(10:12-13)。
あなたが幸せになることが主なる神の御心であり、命じたもう所だと言う。驚くべきことだ。
それに対して、私たちがどのようにしたら、相応しくあることができるだろうか。主を愛すること。愛されているのだから、全身全霊で愛する。
「ですから兄弟たち」、兄弟たちとは、すでに主キリストに結ばれて救われた人たちである。主キリストにつながれているというのは、もう捨てられようのない人である。
もう捨てられようがないから、行うべきことはない。初めに聞いた言葉にとどまること。それを聞いて受け入れ、信じて救われた。信仰義認の基本の事柄である。
祝福の言葉。主イエス・キリストの恵み。神の愛。永遠の慰めと確かな希望とを、恵みによって与えてくださる。救いとは、神の真実の問題、神の側の事情である。人間が、神のためによいことができるかどうかではない。よい業は神がなさせてくださる。神のみ心にとどまる。
わたしたちの不誠実は、神を不誠実にすることはできない。神の誠実があがめられなければならない。キリストの唯一の犠牲による贖いが、あがめられなければならない。
その証をするのは神ご自身。その証にとどまるならば、証はなされる。
(2017年1月22日主日礼拝説教より)