「収穫の主に願いなさい」
更新日:2017.1.23
マタイによる福音書9章27-38節(新P16)
牧師 米倉 美佐男
「収穫は多いが、働き手が少ない。」(37節)
死んだ者の命の回復と今朝の二つの癒しの出来事はイエスのことを不快に思うファリサイにとっては悪霊の力だと揶揄するしかない、目障りなものでした。しかし、癒された者にとってはそれは生涯忘れることのできない大きな経験、恵みの体験でした。癒された当人にしか分からない喜びがあります。黙っていなさいと言われても黙って隠しておくことのできない溢れる喜び、感謝があるのです。
目の見えない者の話は今までにない特徴的なことがあります。それは初めてイエスがダビデの子と呼ばれています。ダビデの子だけは既に1章1、20節に出てきますが、直接イエスを指したのはマタイではここが初めてです。政治的王と期待され、声をかけられると難しい事が起こり得ることになるので、だからだれにも知らせないようにと言われたのです。口の利けない人を話せるようにされた出来事も十分刺戟的なことでした。ある意味、昔の預言者が語ったように、「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる」(イザヤ29・18)、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(35・5)。
これらはメシヤの象徴です。だからファリサイは全面否定したのです。見えていない、聞こえていないのはファリサイの方です。終わりの箇所は収穫の時を意識した話です。収穫はまた終末を意味しています。イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されました。群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみました。その様子を主は飼い主のいない羊のように、と言われたのです。主イエスが真の牧者です。真の羊飼いとして民を憐れむことのできる唯一のお方です。
(2017年1月15日主日礼拝説教より)