札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「なぜ怖がるのか」

更新日:2016.10.11

マタイによる福音書8章23-27節(新P14)

牧師 米倉 美佐男

人生の中でいろいろな出来事に遭遇します。その時にあわてふためくことのないように主の導きと励ましを受けて歩んで行きたいと思います。
主イエス一行が舟に乗って向こう岸に渡ろうとされた時、ガリラヤ湖の湖上で大きな嵐に遭遇し、舟が沈みそうになりました。弟子たちは大あわてで「主よ、助けてください。おぼれそうです」(25節)と悲痛な叫びをあげています。
突然の目の前に起こった危機的な状況の中にあって、主イエスは眠っておられます。あたかも「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」(詩編4・9)とあるように。

主のお姿に対し、弟子たちの姿はあまりにも対照的です。口語訳では「死にそうです」とあります。命の危険な状況の中で私たちを放っておいて見殺しになさるのですか、とでも言いたげに激しい口調で詰め寄るのです。それに対する主イエスのお言葉。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」(26節)と言われます。マルコでは「まだ信じないのか」(4・40)と厳しい口調で叱っておられます。

弟子たちの中にはペトロを筆頭にプロの漁師が何人もいました。彼らはガリラヤ湖の気象は熟知していたはずです。それに対し、イエスは全くのアマチュアです。問題は弟子たちの狼狽する姿です。主が指摘されたように、目先の不安に怯え主が共にいてくださるにもかかわらず、あわてふためくその姿です。信仰者は絶対怖がってはならないというのではありません。主が共におられるのに不安がる姿勢が問題なのです。信仰者は自らの力ではどうにもならないことを知る時に、本当に信頼できるお方がおられることを信じ、全てを委ねるのです。それが信仰です。主イエスは風や湖さえも従わせることのできる神の権威を父なる神より賜わったお方です。主に従う喜びをかみしめて主の民として歩んで参りましょう。

(2016年10月2日主日礼拝説教より)

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